[5] スキルトロン前進!! スコッチ歩兵隊、イングランド騎兵隊を破る 〜バノックバーン〜

 

 

 

王国守護官であったロバート・ザ・ブルースとジョン・コミンが、ダンフリースのグレイフライアーズ教会で会談した。コミンは、フォルカークでウォレスを見捨てて逃亡したかの人物である。だが王位を望んでいたロバートと、イングランドに内通していたコミンの会談は激しい口論となり、ロバートは思い余ってコミンを刺殺してしまう。

教会内での殺人は大罪で、破門は必至であり、破門されれば王位に就くことはできない。彼に残された道は、一つしかなかった。破門を要求する書状がローマ法王庁に届き、破門状が返って来るのに6週間かかると思われた。そこで6週間以内に王位に就き、スコットランド諸侯を率いてイングランドと戦う、それが唯一の道であった。

彼はスクーンで古式に則り、「運命の石の上に座って」ロバート一世として即位した。スコッチたちは今でも、イングランドに略奪された石は偽者であり、本物は隠していたと主張している。

王位を宣言した彼はイングランド王エドワード一世に追われる身となり、伝承ではアイルランド、デンマークまで逃げ回ったという。ロバートはゲリラ戦で抵抗し、エドワードはロバートの兄弟3人を捕らえて殺したが、ロバート自身を捕らえることはできなかった。そして1307年、エドワードが崩御する。彼は「余の遺骨を先頭に立てて、スコットランドと戦え」と遺言したが、跡を継いだ暗愚な息子エドワード二世は葬儀のため兵を引き帰国したため、ロバートは攻勢に転じてイングランドの拠点を次々と落とし、1314年にはスコットランド国内におけるイングランドの拠点はスターリングだけとなっていた。

1314年、ロバートの弟エドワードがスターリング城を包囲した。やがて兵糧が尽き、イングランド軍は「6月24日の聖ヨハネの日までに援軍が来なかったら開城する」と約束する。するとエドワード二世は2万の軍勢を率いて救援に向かった。そこでロバートも7千の軍勢を率いてスターリングの南、バノックバーンに東向きに布陣した。これはイングランド軍がスターリング城へ向かって北進するとき、その側面を攻撃できる体勢であり、つまりスターリング城を救援するには、バノックバーンにいるロバートの本隊を撃破することが不可欠となるのである。

ロバートはイングランド重騎兵隊の突撃に備え、バノックバーンの沼地を決戦場に選んだ。さらに穴を掘りマキ菱を仕掛け、その背後のコクセットの丘にスキルトロン隊(長槍兵の密集隊形)を布陣させ、本隊はニューパークの森に置いた(写真16)。

イングランド軍は6月23日、バノックバーンに到着した(図4)。ロバートは、イングランド軍が重騎兵隊の突撃を得意としていたため、戦闘が重騎兵隊の突撃で始まることを期待していたが、イングランド軍内部ではエドワードの統率力が弱く、諸侯は誰が先陣を勤めるかで強く張り合っていた。

まずグロスター伯が、スコッテキスト ボックス: 写真16 バノックバーン・ヘリテージセンター内にあるロバートの像。ロバート本陣跡に建てられたと言われているが、周囲より小高くなっているのがわかる。右側に見えるのはニューパークの森の痕跡か。なお写真は西向きに撮影されており、古戦場は反対側である。トランド軍左翼に騎兵が渡河できる地点を見つけ、300名の騎兵に突撃させた。すると左翼のスキルトロン隊500名はただちに円陣をつくり、長槍を45度の角度で地面に突き立てて防御し、これを撃退した。

グロスターの突撃を知るや、ド=ボーアンは部隊を率いてスコットランド軍右翼に襲いかかった。伝承では、このときド=ボーアンとロバートの一騎打ちがあったという。ド=ボーアンは討ち死にし、指揮官を失ったイングランド軍左翼は戦闘続行不能となり後退した。これを見たエドワードは軍を再編する必要があると考え、全軍を退却させ、フォース川とバノックバーン川に囲まれた湿地隊に陣を構える(図4(2))。イングランド軍は人馬のため大量の水を必要としたが、通常は川の後ろに布陣するものであり、これはいわゆる「背水の陣」である。自ら窮屈な地に布陣するのは得策ではないし、湿地に布陣したのでは重騎兵の利を活かすことができない。

 

 

テキスト ボックス: 図4 6月24日の両軍の動き(青=スコットランド軍、赤=イングランド軍)。翌日、スコットランド軍はスキルトロンの三列の槍襖を組んでイングランド軍を待ち受けた(図4(3))。敵も騎兵隊を繰り出して来ると予想していたエドワードはこの布陣に意表を突かれ、作戦会議を招集してどう戦えばいいのかを尋ねた。するとイングラハムが「鉄壁の守りを敷く敵陣に突入するのは、相手の思うつぼになる。だから敗走したふりをして退却し、敵を砦から誘い出せれば、我が軍の方が数では優位だから勝てる」と提案した。しかしエドワードは、たとえ偽装でも退却するのは気に入らないと提案を却下し、自ら馬に乗って騎兵隊による全面突撃を命じた。だが、スコットランド軍前面に張り巡らされたマキ菱や穴に脚を取られて馬は負傷し、スコットランド軍陣営に到達するころには隊はバラバラで、次々にスキルトロンの餌食になっていった。

そこでエドワードはロングボウ(長弓)隊を前線に繰り出し(図4(5))、父がフォルカークで演じた勝利をもう一度演じようとした。だがそれは、ロバートの読み筋であった。彼が後方で待機させていた500の騎兵隊をすかさず繰り出すと、ロングボウ隊は護身用に短剣しか持っていなかったため、高い位置から槍を突いてくるスコットランド騎兵隊に次々と倒されていった。

優勢を意識したロバートは、いよいよ全軍に総攻撃を命じた。すると、スキルトロン隊が砦を出て、前進し始めたのである(図4(6))。彼らはもはや、フォルカークで身動きひとつせず一方的に射撃の的にされていた彼らではなかった。スキルトロン隊の歩みは遅いが、三列の槍襖が一歩一歩丘を下って来る。ロングボウ隊の援護射撃はない。イングランド軍はパニックに陥った。騎兵は味方を踏みつけて逃走し、全軍がいっせいに後退すると後方の部隊は押されて川に落ちこみ、多くの兵が溺死した(図4(8))。スコットランド軍はついに、イングランド軍を撃破したのである。

スターリング城は翌日降伏し、勢いに乗るスコットランド軍は1322年ヨークシャーに侵攻、翌年ついに休戦条約が締結され、スコットランドの独立とロバートの王位が承認された。表向きは休戦だが、実質的にはエドワードの降伏であった。エドワードは王妃イザベルによって1327年に廃位され、バークレー城に幽閉されて、熱した火箸を肛門に突き刺して殺された。余談だが映画「ブレイブハート」に、ウォレスとイザベルが恋に落ちるシーンがあるが、1298年のフォルカークの戦いのとき彼女はまだ2歳である。

 

この時代には、歩兵隊をもって騎兵隊を破ることは不可能だと考えられていたが、バノックバーンはそれを実現した稀少な例となった。槍兵密集陣を攻勢に投入するロバートの作戦は、兵の練度と士気に大きく依存しており、スイス槍兵などを除けば戦史にほとんど例を見ない。また長弓兵は、機動性に欠ける敵に対しては抜群の効果を発揮できることがフォルカークで実証されたが、他兵科の掩護を受けなければ脆弱であることが露呈された。この教訓を得たイングランド軍は1332年ダプリン・ムーアの戦いで、長弓隊をもってスコットランドのスキルトロンを撃破し、以後100年以上にわたりヨーロッパ全土を震撼させた長弓戦術を確立させるのである。

 

 

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