[22] 電話事始

   Alexander Graham Bell(1847−1922)

 

 イギリスのエジンバラに生まれる。祖父アレクサンダーは元俳優で、言語矯正師となり、父アレクサンダー=メルビルも言語矯正師で、200版を越える「標準発声」の著者であり、また先天性聴覚障害者でも学べる発音記号「視話法」の考案者でもあった。母イライザ=グレースは音楽の才能があったが、後に聴覚を失った。三代続けて同じ名を持ったベルは、区別するため11歳のときグレアムのミドルネームを自分でつけたが、三代続けて聾唖教育に取り組むこととなった。

 小・中学校に通わず、家庭で教育を受けたベルは、子供のころは母の影響でピアニストを志望していたが、父の講義を手伝ううちに音声学に興味を持つようになり、人の頭蓋骨に樹脂で肉付けして「話す機械」を作ったりしたという。

 高校時代からエルジンのウェストンハウス学園で教えていたベルは、エジンバラ大学とロンドン大学で音声学を学び、ロンドンの聾学校でも教鞭を取り、テキスト ボックス: ベル生家(エジンバラ)。父の助手も務めていたが、当時流行していた結核で兄と弟を亡くしたため、一家は1870年に自然の豊かなカナダに移民し、オンタリオ州ブラントフォードに居を構える。

 

 ベルは1871年ボストンに移り、ボストン大学教授そしてクラーク聾学校の教師となる。そこの生徒には、マサチューセッツ州セーレムの資産家トーマス・サンダースの息子ジョージや、弁護士ガーディナー=グリーン・ハーバードの娘メーブル(後の妻)がいた。ハーバードは市の有力者で、交通と通信の発達に使命感を抱き、ボストンケンブリッジ間の馬車鉄道の開設や、ケンブリッジの上水道と街灯の普及などに尽力した人である。当時の電信は速度が非常に遅かったため、ハーバードは電信公社の設立運動を起こしたが、それはアメリカ最大の電信会社ウエスタン・ユニオンを激怒させた。同社はスターンズの二重電信、次いでトーマス=アルバ・エジソンの四重電信の特許を買い取ってハーバードの鼻をあかした。彼がベルと出会ったのはそんなときのことだった。

 音楽好きのベルは19歳のとき、ヘルマン・フォン=ヘルムホルツが書いた「音の感覚」を読んで、初め電信で音楽を送ることを考えたが、サンダースとハーバードの提言により、テキスト ボックス: オンタリオ州ブラントフォードのベル邸。電話が製作されたのはボストンだが、そのアイデアはここで生まれたという。調和式多重電信(一本の電線による同時多量電信)の研究に転じる。ところが1875年のある日、助手のトーマス=オーガスタス・ワトソンが、実験中に振動しなくなった受信器の振動板をはずそうとして引っ張ったところ、かすかな音がした。回路に電流は流れていないのに、残留磁気を帯びた鉄片を引っ張ったら、その振動で波状電流を誘導し、送信器のリードを振動させ、音が発生したのである。このときベルは電磁誘導を使った音の電信(電話)を思いついたのだった。

 彼は、父の友人でカナダの国会議員ブラウンを通じてイギリスで特許を申請するつもりでいたが、実はブラウンは電話に将来性がないと見て、申請書を握りつぶしていた。そこでハーバードは1876年2月14日午前11時に特許を出願。名称はギリシャ語のtele(遠い)とphone(音)にちなんで“Telephone”。だが同じ日の2時間後、イライシャ・グレイが液体電池の可変抵抗による“Telephone”の特許権保護願を出願したため、事態は混迷へと向かって行くことになった(なおグレイは1874年に調和式電信を発明している)。

 特許権保護願とは、発明のアイデアを思いついた人が装置製作で他者に先を越されないよう一定期間優先権を持つことであり、グレイは自分の原理で音声が伝えられるかどうかまだ確認してなかった。一方ベルは電話機の製作こそまだだったが、自分の原理で音声が伝えられることを確認した「特許申請」であり、ベルが先んじていることは明らかである。

 通常出願から認可まで何年もかかるものだが、半月後の3月7日にはベルの申請は特許174465号として認可された(その裏ではハーバードとサンダースの政治力が働いた疑いが濃厚)。しかもその範囲は電磁誘導式のみならず、電話に関する全ての権利であった。しかしこの時点では、原理だけで電話機はまだ完成していなかった。ベルは装置の完成を急いでいたが、グレイ式電話が本当に有用なのかどうか試そうと思った。ところが3月10日夜、屋根裏部屋で装置を作るため硫酸を容器に入れていたとき、誤ってズボンの上にこぼしてしまう。彼は思わず、隣部屋に向かって壁越しにこう叫んだ。

Watson, come here! I want to see you!

だがワトソンは、その声を受話器を通して聞いたのだった。これが電話最初の声である。

 ベルの電話は、その年フィラデルフィアで開催された独立百周年記念博覧会に展示さテキスト ボックス: 電話最初の地(旧ベル宅、ボストン)。れることになったが、輸送中に破損してしまった。もし通話できなかったら、特許権にも影響しかねないため、ブラジル皇帝ペドロ二世が来場する日までに修理しなければならなくなった。ところが当日、皇帝の前でベルが電話の説明をしているとき、観衆の中に、調和電信機を展示していたグレイがいることに気がついた。ベルは受話器を皇帝に持たせ、送話器から語った。

To be, or not to be. That is the question.”(ハムレットの台詞「生きるべきか、死ぬべきか。それが問題だ」)

グレイはこのとき初めて電話の声を聞いたと後に語った(すなわちまだ電話機を製作していなかったと認めた)。ベルの作品は疑いなく電話だったが(to be)、グレイのは単なる発案であり、電話になっていなかった(not to be)。それが問題だったのである。

 電話の威力に驚いた皇帝は、自国用に電話機を100台注文すると発表した。そして玩具展示場にたった18語のカタログとともに展示されていた電話機は、発明展示場に移され、そしてエジソンの多重電信機が金賞に内定していたにもかかわらず、皇帝の一言でベルの電話が金賞に輝いたのである。

 そのころアメリカを訪れていた伊沢修二(後の東京高等師範学校長・東京音楽学校長・東京盲唖学校長・貴族院議員)は、博覧会で電話とともに展示されていた視話法表に関心を持ち、ベルの生徒となった。ある日伊沢はベルに

「電話は日本語も話せますか?」

と尋ね、電話を取って日本語(・・・)()

「もしもしベル先生、聞こえますか」。

と話しかけた。ベルは1898年に来日したとき、「電話が話した最初の外国語は日本語です」と語っている。

 ベル式電話は大きな音を送れないため、長距離の通話が不安視されていたテキスト ボックス: 視話法(「標準発声」の1ページより)。が、1876年ベルはブラントフォードパリス間(約12キロ)の、世界初の長距離通話に成功する。ちなみにこのときの会話は、父親からベルへの「アレック、お父さんだよ」というものだった。電話が実用に耐えるとみたベルらは、ウエスタン・ユニオンに特許を売ろうとしたが断わられたため、翌年ベル、ワトソン、ハーバード、サンダースを発起人にベル電話会社の設立に踏み切った。

 電話は当初高価なおもちゃとしか見られていなかったが、ベルらは各地を巡回して、電話は坑内の炭坑夫や海中の潜水夫はおろか、海外とも通話できるとその有用性を説いた。だが人々は電話を「1マイル先で窒息しているような声」だとか、みんなが電話に加入していなければ意味がないとか、あちこちに電線を張りめぐらせていたら銅がいくらあっても足りないなどと言って、ベルを「アメリカ最新のペテン師」と呼んでいた。実際「電話」と称して糸電話を売るような詐欺行為が頻発していたのである。しかし会社は創業半年で3,000人の加入者を獲得し、加入者が増えると電話は加速度的にその有用性を増し、ベルは若くして巨万の富を手にすることとなった。

 するとベル電話会社の成長に危機感を抱いたウエスタン・ユニオンは、エジソンに送話機の改良を依頼し、1877年に炭素送話器(大きな音を送れる。現在のものと同じ)を発明するとエジソン、グレイ、エイモス・ドルベアの特許を買い取り、電話事業に進出する。ベル電話会社はその翌年エミール・バーリナーの可変圧力送話器の特許を買い取って対抗し、同時にウエスタン・ユニオンを告訴した。一年に及んだ裁判はベル側の勝訴に終わり、ウエスタン・ユニオンは所有する電話設備と特許の全てをベル電話会社に委譲し、以後17年間に収入の20%を受けることを条件にベルの特許権を認め、電話事業から撤退した(ウエスタン・ユニオンは後にベル電話会社に吸収される)。これに納得できなかったエジソンは、エジソン電話会社を設立したが、自分の特許を使うことができず、湿ったチョークを使った送話器を発明したが、感度が悪く、この会社もベル電話会社に15万ドルで買収された。1885年にはパン・エレクトリック社がフィリップ・ライスの特許を盾に訴訟を起こしている。ライスは1860年に“Telephone”という名の装置を作っているが、それは音の強弱を再現できず、声を聞き取ることはできない代物だった(だがドイツではライスが電話の発明者だと言われている)。電話事業が巨大なマーケットだと分かると、以後18年間に587件もの裁判が起こったが、どの裁判も特許認可後1年半以上も経ってからの異義申立だったため、ベルはその全てに勝ち抜いていった。

 電話の特許争いでは一敗地にまみれたエジソンだったが、電話に出るときに言う“Hello.”はエジソンの考案である。猩紅(しょうこう)熱が原因で聴覚障害があった彼は、初期の電話の感度が悪かったため、実験のとき大声で叫ぶ必要があったのである。発明者のベルは“Well, well.”と言っていたが、定着しなかった。

 さて電話で敗れたエジソンは、1877年に蓄音機(フォノグラフ)を発明していた。だがそれは錫箔の円管に音溝を刻んでいたため、録音は2分が限度で、音質も悪く摩耗しやすかった。大声で吹き込むと再生のときかすかに聞き取れるような代物で、エジソンは蓄音機を発明したものの、その用途を思いつかず、口述記録機だと見なしていたほどである。そこでベルはボルタ研究所(現ベル研究所、電話の発明により受賞したボルタ賞の賞金で創立された)のチャールズ=サムナー・ティンター、チチェスター・ベル(ベルの従兄)とともに1885年、これを改良した蓄音機「グラフフォーン」を開発。錫箔では保存ができないので、紙にワックスをひいたワックスシリンダーを用い、ワンタッチで交換できるようにした。また録音用と再生用の針を別々として、録音用はナイフ状の形にし、再生用は先端を球テキスト ボックス: チチェスター・ベル。にして、音溝を削らないようにしたため、音質は格段に向上した。

 

 ベルは同い年のエジソンとよく比較される。エジソンは発明を単なるおもちゃ製造にとどめず、それを普及させることまで考慮した。電球を発明したとき、すでに発電所や変電所にまで思索を巡らし、社会を進歩させることまで視野に入れていた彼は、発明家というより実業家だったのかも知れない。彼は科学以外に興味を示さず、学生時代は落ちこぼれで「アメリカのような成長途上の国では科学を最優先させるべきで、文学などは二の次だ」と考え、子供たちを学校に通わせなかった「科学の鬼」だった。そのため子供たちは父と同様に屈折した少年期を送り、父の名声を利用して詐欺もどきの仕事に手を染めた者もいたほどだった。ベルの妻メーブルは、幼くして死んだ自分の2人の息子について「トーマス・エジソン氏の息子さんの残酷な現実に比べたら、あの子たちはどんな子になっていただろうと想像する方がどれだけ幸せでしょう」という手紙を夫に宛てている。そんなエジソンとは対照的に、ベルは社会に幅広い関心を持ち、子供を愛し、聴覚障害者の妻を愛し、聾唖教育に生涯取り組み続けた。

 1879年に発明された、電話を用いた聴力計(音の強弱を表す単位は“db〔デシベル〕”という)は、聴覚が全くないと見られていた人々にわずかな聴覚があることを発見し、聾唖教育に福音をもたらした。また、指話は聾唖者を健聴者から引き離すと考えた彼は、読唇術と口話を推進するアメリカ聴覚障害者発語法教育推進協会(AAPTSD、現アレクサンダー=グレアム・ベル聴覚障害者協会)を1890年に創立し、この理念に基づき口話を教え、健聴者とともに活動する「アレクサンダー=グレアム・ベル学校」を1918年に開校している(メーブル夫人も口話を使い、指話を忌み嫌った)。来日した際には伊沢が校長を務める東京盲唖学校を訪問し、盲学校と聾学校は分離するべきことと、盲学校と聾学校専門の教員養成機関の必要を説き、5年後に盲唖学校教員養成科を設置させている。また医師たちに見放されたヘレン=アダムス・ケラーをアン=マンスフィールド・サリバンのもとに導いたのも彼の隠れた功績である。職業をきかれるといつも「聾唖教師」と答え、科学者とは考えなかったベルは、エーテルの存在を信じ重力の存在を否定するなど、科学者としての才能を欠いていた。若い日に富と名声を手にした彼は、過去の人になるのを恐れ生涯発明に取り組み続けたが、その後の道のりは決して平坦ではなく、電話を凌ぐ発明はついに生み出されることはなかったのだった。

 電磁誘導は半世紀も前に発見されていた。しかし当時の学者たちは、電話テキスト ボックス: 左からヘレン・ケラー、アン・サリバン、ベル。3人の友情は生涯続いた。を作るためには音で発電する大がかりな装置が必要で、理論上不可能と考えており、ベルの電話機を見たとき、構造のあまりの単純さに衝撃を受けたという。電磁石の力で振動板を振動させて音を出すという方法は、後で言われてみれば簡単なことだが、ベル自身が後年語ったように、電気の専門家なら電磁石が音の微妙な振動について行けるなどとは考えなかっただろう。電話の発明者は、音声学と生半可な電気の知識を兼ね備えた人でなければならなかったのだ。だが発明がアマチュア一個人の、素朴な1%のひらめきから生まれる時代は終わりつつあり、スペシャリストたちが組織力で圧倒する時代になりつつあったのである。

 電話が普及するとおびただしい数の電線が上空を覆うようになり、やがて景観を損ねるのではないかという不安は、早くからベルの心にあった。電柱はベル電話会社と電力会社が共用していたが、トラブルが絶えなかったため、エジソンはヒューム管を発明して電線を地下に埋設し、ベル電話会社もエジソンに使用料を払ってヒューム管を使用することになった。その一方で無線電話時代の到来を予感したベルは、1880年にティンターとともにフォトフォーン(光線電話)を発明する。これは光の強弱によってセレニウムの電気抵抗が変化する性質を利用した、世界初の放射エネルギーを使った発明だった。セレンを貼った円盤に電流を流しておき、話しかけたときに薄い鏡が振動して光が当たり、光の強弱が電流の強弱に変わるというものである。フォトフォーンを使うと、雲の動きやタバコの煙まで音として聞くことができる(調子に乗ってベルはキャンディーや卵焼きの「音」を聞こうとしたが、全く反応がなかった)。フォトフォーンは電線を切断されたり、妨害電波を出されたりすることもない「生涯最高の発明」と彼自身は語っていたが、当時の科学では強力な光源が得られず、送信距離は9キロが限界で、霧の日や夜は役に立たず、軍事目的に使われる程度で、結局一般には普及しなかった。光線電話が日の目を見るのは、実に1970年の、ベル研究所がレーザー光線によるデジタル通信機を開発するときのことなのである。

 1881年にガーフィールド大統領が狙撃されたときには、体内の弾丸の位置を探す電話式探針を発明する。これは重なった平らな2つのらせんコイルを誘導音が消えるような位置に置いて、この重なりの場所を金属が通過すると平衡が崩れて音がするという、誘導平衡の原理を応用したものである。電話式探針は日清戦争などで活躍したが、1896年にX線が発見され廃用に帰した。1903年には、ラジウムを投与してX線で癌を治療する方法を発表したが、フランスの医師に数ヶ月早く発見されていた。また1881年に長男が生まれてすぐに呼吸不全で死亡したときは、人工呼吸機バキュームジャケットを発明。これは胴体を包む鉄の円筒で、周囲の気圧を下げ、大気圧の力で空気を流し込むというものだった。だが呼吸器は長時間使用するものなので、エンジンが取り付けられるまでは使用されることはなかった。その後も海底で破裂弾を破裂させ、水面に達する時間から海底の深さを測る音響測深法を考案しているが、これも他の者に先を越されてしまった。また乳頭が4つある羊の品種改良に成功し、全米品種改良研究協会員となっている。しかしベルの死後農務省の研究によって、多乳頭種の乳汁量は普通種と大差ないことテキスト ボックス: ベン・ブレアと品種改良された羊。が判明した。

 そのほか発明に至らなかったアイデアとしては、緊急の際何らか(・・・)()理由(・・)()叫べない場合、ボタンを押すと内蔵された蓄音機が“Help!”とか“Fire!”とか叫ぶ装置という、いかにも聾唖教師が考えつきそうな代物で、ベルはこれを「巨万の富を生む発明」と呼んだが、誰も取り合わなかった。また「抵抗を少なくするため回転しながら進む船」が、アイデアだけで実験にまで至らなかったことは人類にとって幸甚であった。「人の頭を電線でつなぎ以心電心(?)を図る実験」に至っては何をか言わんやである。

 これらの発想をばかばかしいと笑うのは簡単である。だが電話をはじめ発明の多くはこうした途方もない発想から生まれたことを忘れてはならないだろう。

 

 1890年にノバスコシア州バデックの邸宅「ベン・ブレア」に移ってから、ベルは空を飛ぶという途方もない発想に取りつかれた。研究はまず凧を揚げ、風に逆らって引く力を測定することから始まったが、これにはヘレン・ケラーとアン・サリバンも参加している。人命第一と考えた彼は強度を重視したため、機体は多数の正四面体の細胞で構築するのが適切という結論に達した。そこで1907年ベルを会長にジョン=アレクサンダー=ダグラス・マカーディー(18861961)、フレデリック=ウォーカー・ボールドウィン(18821948)、グレン=ハモンド・カーティス、トーマス=イソーレン・セルフリッジとともにエアロドローム実験協会を設立。マカーディーはバデックの出身で、ベルの秘書の子であり、トロント大学とノバスコシア技術大学で工学を専攻。ボールドウィンはアッパーカナダ総督ロバート・ボールドウィンの孫としてトロントに生まれ、トロント大学で工学を学びフットボール部のキャプテンを務める優等生だったが、卒業論文のテーマを「航空力学」にして周囲を慌てさせていた。カーティスはオートレーサーだったが、妹が聴覚障害者だったことからベルと知り合い、スカウトされた。セルテキスト ボックス: 正四面体凧実験中のベル。フリッジはアメリカ陸軍砲兵隊から派遣された。なおエアロドロームとはベルがギリシャ語にちなんでつけた飛行機の呼称である。協会はベル夫妻が出資し、5人がそれぞれ好きな飛行機を設計し、他の者が製作を手伝うものとした。

 協会はまずその年、セルフリッジを乗せた、3,400個の正四面体細胞から成る巨大な有人凧「シグネット」を飛ばした。リトル・ブラドール湖上を50.4メートル飛んだ実験はまずまずの出来だったが、その後4人の若者は正四面体構造を無視し、ライト兄弟と同じ複葉機の設計を始めた。そして1908年3月12日、セルフリッジ設計の「レッドウイング」が、ニューヨーク州ハモンズポートのキューカ湖上で97メートルの飛行に成功し、操縦したボールドウィンは空を飛んだ最初のカナダ人(世界で7人目)となった。続いて5月、ボールドウィン設計の「ホワイトウイング」に乗ったカーティスが310メートルの世界記録を樹立。6月にはカーティス設計・操縦の「ジューン・バグ」が1キロ飛んで記録を更新。さらに1909年2月23日にはバデックのブラス・ドア湖上を、マカーディー設計・操縦の「シルバーダート」が800メートル飛んだ。これがカナダで飛んだ最初の飛行機である。

 このころになると飛行機はもはや「途方もない夢」ではなくなテキスト ボックス: シルバーダートに乗るダグラス・マカーディー。り、マスコミで取り上げられるようになっていった。ベルは「私が何も言わなければ、人は全部私の功績にしてしまうだろう」と語ったが、事実空を飛ぶのは若者たちの複葉機ばかりで、ベルの四面体飛行機「シグネット2号」「オイオノス」は地面から全く離れることができなかった。またベルが「エアロドローム」の名に固執したのに対し、世間では飛行機のことを「エアロプレイン」と呼ぶようになっていった。

 協会は1909年に解散し、ベルはマカーディー、ボールドウィンとともにカナディアン・エアロドローム社を設立してカナダ軍に売り込みを始める。だが陸軍が視察する中、シルバーダートは丘に激突し、もくろみは崩れ去った。マカーディーは会社に見切りをつけ、カーティスとともにカーティス航空社、カーティス航空学校を創立。マカーディーは最初の職業パイロットとなり、飛行機の普及のため各地で航空ショーを展開、1910年にはフロリダ州キーウエストからキューバのハバナまで129キロの飛行に成功し、ゴメス大統領から賞金1万8千ドルを贈られている。1947年にはノバスコシア州副総督に就任した。なおセルフリッジはライト兄弟との共同実験に入っていたが、1908年9月17日バージニア州フォートマイヤーズで墜落し、最初の航空事故死者となった。

 ベルはその後もなお四面体飛行機に固執した。1912年、ベルはこれが最後だと言ってマカーディーを無理に呼んで、雪の中「シグネット3号」を操縦させた。すると機体がもがくような感じがしたので、エンジンを切り、ふり返ると、わだちが30センチほど途切れているのに気がついた。マカーディーはベルに言った。

「先生、おめでとうございます。四面体エアロドロームがついに空を飛びました」。

 ベルはその後二度と飛行機に取り組むことはなかった。季節が過ぎ、雪がとけ、ベルの20年の苦闘の証は、エアロドロームの名とともに消えていった。

 その後ベルはボールドウィンとともに水中翼船の研究に入り、1919年にはハイドロドローム4号が時速114キロの世界記録を樹立している。だが海軍は、軍用としては強度に欠けており、それほどの速度も必要ないという理由で採用しなかった。

テキスト ボックス: ハイドロドローム4号。 

 1915年に大陸横断電話線が開通したとき、ベルは記念式典に招待された。ニューヨークで彼は、博覧会に出展した電話機を前に、サンフランシスコにいるワトソンからのコールを待った。だが電話が鳴り、受話器を取ったとき、ベルが言ったせりふは、会社側が事前に用意したものではなかった。

Watson, come here. I want you.

 ワトソンが「先生、一週間はかかりますよ」と応えると、観衆の中から笑いがこぼれた。39年前隣部屋に向かって叫んだ声は、こうしてついに大陸を横断したのである。

 発明と聾唖教育に生涯を捧げたベルは、1922年にバデックの自宅で世を去った。その日カナダとアメリカの電話は一分間サービスを中断し、その生みの親に黙祷を捧げた。そして聾唖者を生涯愛した男は、永遠の静寂へと旅立って行ったのである。

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 ベル電話会社は後にアメリカ電信電話会社(AT&T)と改称し、今日世界最大の民営企業となっている。また通信技術開発部門にベル研究所があり、1948年トランジスタの発明でウイリアム=ブラッドフォード・ショックレー、ジョン・バーディーン、ウォルター=ハウザー・ブラッテンがノーベル物理学賞を受賞。公開実験の席でショックレーは“Watson, come here. I want you.”と言って喝采を浴びた。そしてトランジスタを使った最初の製品である補聴器が、ベル聾唖学校に納められた。

 

 

 

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