●ケベック民主行動党Action démocratique du Québec/Équipe Mario Dumont

 ケベック民主行動党ケベック未来連合に吸収され消滅

【歴代党首】
初 代 ジャン・アレール(19941994

第2代 マリオ・デュモン(19942008

第3代 ジル・タヨン(20092009

第4代 ジェラール・デルテル(20092012

 

 正式名称は「ケベック民主行動党/マリオ・デュモン派」と言い、英語名称は持っていない。党の政策は、財政保守主義とポピュリズムと評されていた。減税、予算の縮小、州政府公務員の削減、民活の奨励、民間保険導入、私学援助、教育委員会の廃止、労働組合の影響力の削減、刑事罰の強化など政策面では革新的なところは見当たらず、一般に保守政党と見なされていたが、同党の「行動計画」を見ると「我々自身の現実、我々自身の言語、我々自身の歴史」とあるように、自由党の分派だけあってか、カナダ連邦の枠内でのケベック州の「自治主義」を明確に掲げ、ケベック党とは一線を画し「主権」という表現を用いなかった。また小選挙区・比例代表並立制の導入や、州首相直接選挙制を主張した。

 同党は保守的なフランス系を支持基盤として、マイナリティに弱く、またモントリオールなど都市部で弱く、ケベック中部で支持されており、地盤はかつてのユニョン・ナショナルや社会信用党と重なっていた。両党が消滅してから、保守支持層はケベック党と自由党に股裂きになっていたが、前者は左派、後者は中道右派であり、近年のケベック政治は保守政党を欠いた状態で、分離主義と反分離主義という争点でもっぱら争われていたことになる。

 

 (1) 不動の第三党

 党の正式名称が示すとおり、党の命運は15年間デュモン党首一人にかかっていた。党はケベック政界で第三党の地位を不動のものにしていたが、8年もの間議員は彼一人であった。

 自由党は初めジャン・アレールが作成した、地方分権を支持するアレール・レポートを党の政策として採択したが、1992年にマルローニ連邦首相がシャーロットタウン協定を作成すると、これを採択してアレール・レポートを放棄したため、自由党内の民族主義グループが離党テキスト ボックス: マリオ・デュモン。し、アレールを党首として1994年、民主行動党を旗揚げした。アレールはその直後、健康上の理由で党首を辞任し、後任に弱冠23歳のマリオ・デュモンが就任する。

 1994年総選挙で1議席獲得、1998年も1議席、2003年には4議席を獲得し、少数世帯なれど第三党の地位を確実にした。2002年の補欠選挙では、ケベック党と自由党の両方に不満を持つ層の支持を受け、連戦連勝して5議席を獲得し旋風を巻き起こした。

 1995年の独立を問う州民投票では、ケベック党・ケベック連合との間に三者協定を結び、「連邦政府との間で経済的・政治的パートナーシップ協約を結ぶ」提案に賛成(ウィ)の立場をとったが、結果は敗北であった。党はその後州民投票の凍結を提唱して、「自治主義」を掲げ独立路線を事実上放棄し、カナダ連邦に留まりケベックの州権強化を主張する路線に転向した。またケベック党の社民主義からも一線を画すべく右旋回して、減税・民活の奨励・健康保険民営化などを訴えた。

 

 (2) 躍 進

 2007年州議会選挙では、野党第一党のケベック党が独立を公約に掲げたことから、独立騒ぎに疲れた有権者の支持が民主行動党に集まり、41議席を獲得して初めて野党第一党に躍進した。2006年連邦議会選挙において、保守党がケベック州で議席を増やしたことも、民主行動党に有利に働いたと考えられている。

 連邦保守党のハーパー首相は、独立に反対するケベック自由党を支持してきたが、右派の民主行動党が躍進すると、これに接近を図った。ところが2008年連邦議会選挙で、デュモン党首自身は保守党に投票すると明言したものの、民主行動党としては自由投票にすると発表した。そのため保守党は党員を増やすことができず、議席の上積みもできなかった。

 野党第一党となったものの、1年生議員ばかりの民主行動党は有権者にアピールできず、支持率は低下した。いっぽうケベック党は野党第二党に転落したものの、民主行動党との議席差は5議席しかなかったので、野党第一党の地位を回復するため議員の引き抜きにかかった。

 200810月、デュモン党首のワンマン運営に失望したアンドレ・リードル議員とピエール=ミシェル・オジェル議員が、自由党に移籍した。これは、民主行動党が自由党への根回しなしに、ケベック党のフランソワ・ジャンドロンを議長に当選させたことへの仕返しであった。

 

 (3) 終 焉

 2008年州議会選挙で、民主行動党は7議席と惨敗した。デュモン党首は党首を辞任したが、長らく彼のワンマン体制が続いてきた党は、リーダーシップを巡り迷走した。

 2009年に行われた党首選では、ジル・タヨン候補が前立腺癌を告白したため、エリック・ケール候補との間で中傷合戦となった。タヨンは決戦投票でかろうじて勝利したものの、独裁的、党財政が不透明、そして連邦保守党との提携解消に言及したことで強い批判を受けた。

 翌月ケール議員とマルク・ピカール議員が離党し、デュモン党首の辞職と併せて、民主行動党は4議席となった。するとジェラール・デルテル議員とジャンビエ・グロンダン議員は、タヨン党首が辞任しなければ離党すると迫った。タヨン党首は、就任して1か月も経たないうちに辞任を余儀なくされた。タヨンはこれを、党創設者であるデュモンと保守党による陰謀だと語った。後任党首にはデルテル議員が就任した。

 

 フランソワ・ルゴーは2011年、連邦主義の右派新党「ケベック未来連合」(CAQ)を旗揚げした。政党支持率調査は、ケベック未来連合の35%に対し、民主行動党はわずか8%という結果を示した。民主行動党はケベック未来連合との合併協議を始め、201112月、党を解散しケベック未来連合に合流することで両党が合意したと発表した。民主行動党はテキスト ボックス: 救い主誕生を祝福するデルテル党首。“CAQ”はフランス語で「カーク」と発音する。2012年1月21日、党員の70%の賛同を得て正式にこれを承認した。ケベック未来連合も、党員による郵便投票の70%の承認を得たと翌日発表し、ケベック民主行動党はここに消滅した。

 

 

 

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