[15] ()(げき)外交官(がいこうかん)

   Egerton Herbert Norman(1909−1957)

 

 本当(ほんとう)にうっとうしい日々(ひび)だった。1957(ねん)(がつ)()、カナダの(ちゅう)エジプト(たい)使()ハーバート・ノーマンは()()らしに(えい)()()()った。タイトルは「(しゅ)(ぜん)()(もの)(がたり)」。(のう)(めん)()(しょう)(ぐん)(みなもとの)(より)(いえ)(めい)じられて(めん)()つが、(なん)()やっても()(そう)(ただよ)(めん)になってしまう。だが()()れなくなった(より)(いえ)は、強引(ごういん)(めん)()()げ、(のう)(めん)()(うつく)しい(むすめ)()れて()く。(むすめ)田舎(いなか)黙々(もくもく)()(ごと)(はげ)(ちち)()(かい)がなく、(よろこ)んで(そば)()となる。(のう)(めん)()()出来(でき)(めん)(おさ)めたことを()やむが、その()(より)(いえ)北条(ほうじょう)()(おそ)われて()に、(むすめ)(より)(いえ)(ふく)(めん)()けて()(がわ)りに()られる。(のう)(めん)()(むし)(いき)(むすめ)()ながら、表情(ひょうじょう)(ひと)()えずに「(めん)()(そう)()えたのは、()(げい)(かみ)(いき)(はい)ったことよ」と()い、(ふで)()って(むすめ)()()(かお)写生(しゃせい)する。――

 (えい)()(かく)されたメッセージを、()(ほん)(ぶん)()造詣(ぞうけい)(ふか)いノーマンは()()ったに(ちが)いない。「信念(しんねん)()をも(ちょう)(えつ)する」と。――

 

 ハーバート・ノーマンは、(せん)(きょう)()ダニエル・ノーマンの()(なん)として(なが)()(けん)(かる)()(ざわ)(まち)()まれた。(なが)()農民(のうみん)とともに(しょう)(ねん)()()ごしたことは、ノーマンの()(そう)(おお)きな(えい)(きょう)(あた)えたことだろう。(あね)グレースは(まち)(ひょう)(ばん)()(じん)で、()()(のぼる)(しょう)(せつ)(おも)()のアン」のモデルになっている(アンの(いえ)はノーマンの(いえ)(こく)()している)。彼女(かのじょ)(せん)(きょう)()(つま)となったが、(ちょう)(けい)ハワードも(せん)(きょう)()となり、(ちち)(でん)()(なが)()のノルマン」や新渡(にと)()稲造(いなぞう)(でん)()()き、(あくた)(がわ)(りゅう)()(すけ)作品(さくひん)翻訳(ほんやく)するなど、()(ほん)(ぶん)()発展(はってん)寄与(きよ)した。(ふた)()とも(しょう)(がい)(だい)()(ぶん)()(ほん)()ごした。

 ノーマンは17(さい)まで(こう)()のカナディアン・アカデミーにテキスト ボックス: 飯綱高原に移築されたノルマン館(長野市)。(かよ)い、トロント大学(だいがく)、ケンブリッジ大学(だいがく)、ハーバード大学(だいがく)(まな)んだ(のち)1939(ねん)(がい)()(しょう)(はい)り、翌年(よくとし)(とう)(きょう)のカナダ(たい)使()(かん)()(がく)(かん)として()(にん)する。だが太平洋(たいへいよう)(せん)(そう)勃発(ぼっぱつ)すると、1942(ねん)本国(ほんごく)送還(そうかん)された。

 ()(ほん)(せん)(そう)泥沼(どろぬま)にはまり()(なか)、ノーマンの(はく)()論文(ろんぶん)()(ほん)における近代(きんだい)(こっ)()成立(せいりつ)」が1940(ねん)(しゅっ)(ぱん)される。その(なか)(かれ)は、(がい)(こく)(きょう)()は、()(りょく)(しゅ)とした(うえ)からの改革(かいかく)による(きゅう)(そく)近代(きんだい)(こっ)()成立(せいりつ)(うなが)したが、(どう)()軍国(ぐんこく)(しゅ)()()んだと()べ、軍国(ぐんこく)(しゅ)()()(げん)(しょう)()だけでなく、近代(きんだい)(こっ)()成立(せいりつ)()(てい)にある構造(こうぞう)(てき)なものだとする()(てん)が、()(ほん)(けん)(きゅう)(かい)()であった()(だい)に、()(ほん)()まれの西洋(せいよう)(じん)によって()かれたことは(おお)きな(はん)(きょう)()んだ。(つづ)1943(ねん)の「()(ほん)(へい)()農民(のうみん)」では、()(みん)(ぐん)として創設(そうせつ)された欧米(おうべい)(ぐん)(たい)(たい)し、()(ほん)(ぐん)(たい)海外(かいがい)(しん)(りゃく)のために創設(そうせつ)され、(ちょう)(へい)(せい)によって人民(じんみん)抑圧(よくあつ)したと()いた。1945(ねん)には「()(ほん)(せい)()封建(ほうけん)(てき)背景(はいけい)」を発表し、()(ほん)国粋(こくすい)(しゅ)()(とつ)(にゅう)するうえでの()(よく)団体(だんたい)役割(やくわり)について(ろん)じている。また1949(ねん)発刊(はっかん)の「(わす)れられた()(そう)()(あん)(どう)(しょう)(えき)のこと」では、文字(もじ)(どお)(れき)()から「(わす)れられた()(そう)()である(あん)(どう)(しょう)(えき)に、(げん)(ろく)(たい)(へい)()にあって()(ぶん)(せい)()()(はん)し、男女(だんじょ)(あい)()き、農耕(のうこう)(たっと)び、宗教(しゅうきょう)()(てい)した()(かい)最初(さいしょ)(きょう)(さん)(しゅ)()(しゃ)としてスポットを()てている。これらの著作(ちょさく)によって、ノーマンの()(ほん)()()としての地位(ちい)()(どう)のものとなった。

 (しゅう)(せん)()(かれ)GHQ連合(れんごう)(こく)(ぐん)(そう)()(れい)())スタッフとして(さい)(らい)(にち)する。(かれ)(のう)()(かい)(かく)(ざい)(ばつ)解体(かいたい)()(じん)解放(かいほう)など民主(みんしゅ)()政策(せいさく)遂行(すいこう)するマッカーサーを(した)い、マッカーサーも()(ほん)(じつ)(じょう)(くわ)しいノーマンを(ちょう)(よう)した。ノーマンはまずエマーソンとともに、(きょう)(さん)(とう)志賀(しが)(よし)()(とく)()(きゅう)(いち)(ちょう)(せん)独立(どくりつ)運動(うんどう)()(きん)天海(てんかい)(てん)()(きょう)()(どう)(しゃ)(はん)(せん)(しゅ)()(しゃ)など(せい)()(はん)(しゃく)(ほう)()たった。またそのころ(この)()(ふみ)麿(まろ)(もと)(しゅ)(しょう)(しん)憲法(けんぽう)制定(せいてい)(うご)いていたが、ノーマンが(かれ)(せん)(そう)責任(せきにん)()うたため(いっ)(てん)して(せん)(ぱん)()(めい)された((この)()はこれを()()(さつ))。そのほか(しげ)(みつ)(まもる)東郷(とうごう)茂徳(しげのり)減刑(げんけい)進言(しんげん)し、市川(いちかわ)(ふさ)()河上(かわかみ)(じょう)()(ろう)(いぬ)(かい)(たける)(こう)(しょく)追放(ついほう)(しゃ)リストからの削除(さくじょ)(はたら)いた。天皇(てんのう)(せい)(かん)しては()(ほん)(じん)主体(しゅたい)(せい)(そん)(ちょう)すべきだとし、(しょう)()天皇(てんのう)退(たい)()についても、(きゅう)(ぐん)()GHQ()いなりになっている天皇(てんのう)退(しりぞ)け、(たか)(まつの)(みや)()てようと画策(かくさく)するのを()(けん)()して反対(はんたい)。そして(しん)憲法(けんぽう)(せい)(てい)の2(ねん)()には、(はや)くも(きょく)(とう)()(もん)()(いん)(かい)主導(しゅどう)による憲法(けんぽう)改正(かいせい)(うご)きが()こったが、(かれ)はこの()(てん)での改正(かいせい)(しょう)(そう)だとし、また(がい)(あつ)による改正(かいせい)にも反対(はんたい)した。

 1946(ねん)には(ちゅう)(にち)カナダ(だい)(ひょう)()主席(しゅせき)(しゅう)(にん)し、その3(ねん)()にはマッカーサーの(すい)(しょう)特命(とくめい)全権(ぜんけん)(こう)使()(しょう)(かく)。だが(れい)(せん)(はじ)まると、GHQ()(ほん)(はん)(きょう)(ぼう)()(てい)とする「(ぎゃく)コース」へと()(こう)し、民主(みんしゅ)()政策(せいさく)経済(けいざい)復興(ふっこう)政策(せいさく)にすり()えられていった。1950(ねん)(ちょう)(せん)(せん)(そう)勃発(ぼっぱつ)すると、マッカーサーは(こう)(しょく)追放(ついほう)(れい)(ぎゃく)(よう)して(きょう)(さん)(とう)(かん)()追放(ついほう)し、かえって()(しゅ)(せい)(とう)(よう)()する(うご)きを()せた。そして警察(けいさつ)予備(よび)(たい)創設(そうせつ)500(めい)にものぼるジャーナリストへのレッドパージと(つづ)き、ノーマンはマッカーサーから()(だい)(きょ)()()くようになっていった。マッカーサーはその(とし)原爆(げんばく)使()(よう)()せず」の発言(はつげん)解任(かいにん)され、ノーマンもその2ヶ(げつ)()本国(ほんごく)(しょう)(かん)された。

 

 だが()(こく)した(かれ)()っていたのは、RCMP(カナダ連邦(れんぽう)警察(けいさつ))による審問(しんもん)だった。()(しつ)にフランコ(しょう)(ぐん)(しょう)(ぞう)()(かか)げていたという、GHQでも(ゆび)()りの(はん)(きょう)(しゅ)()(しゃ)チャールズ・ウィロビー(しょう)(しょう)はノーマンの()(そう)()(けん)()し、アメリカ(じん)でもないのにGHQ(おお)きな(かお)をしていたのを()(かたき)にして、スパイ(よう)()ありとのレポートをFBIに送っていたが、グーゼンコがスパイとして()()ししたハルペリンがノーマンの友人(ゆうじん)だったことから、この偏見(へんけん)()ちたレポートが()()()たのである。ケンブリッジ大学(だいがく)(きょう)(さん)(しゅ)()活動(かつどう)(さか)んなところで、(じつ)はノーマンは在学(ざいがく)(ちゅう)(しゅう)(かい)出入(でい)りし、メンバーと交際(こうさい)していたのだ。1951(ねん)、ケンブリッジ大学(だいがく)(しゅっ)(しん)でイギリス(がい)()(しょう)(しょく)(いん)のガイ・バージェスとドナルド・マクリーンがスパイであることが発覚(はっかく)し、ソ(れん)(ぼう)(めい)するという()(けん)()こると、ケンブリッジの関係(かんけい)(しゃ)はいっせいに()(わく)()()けられることになったのだった。

 グーゼンコ()(けん)(けい)()に、このころ北米(ほくべい)ではマッカーシー(じょう)(いん)()(いん)をはじめとする(あか)()りの(あらし)()()れていた。(きょう)(さん)(しゅ)()(しゃ)はソ(れん)のスパイだという前提(ぜんてい)次々(つぎつぎ)審問(しんもん)にかけられたが、それは(ちゅう)(しょう)捏造(ねつぞう)された(じょう)(ほう)(もと)づき、()(じつ)(わい)(きょく)し、誘導(ゆうどう)(じん)(もん)()(よう)して()いつめるような()(ぐち)だった。()審問(しんもん)(しゃ)(きょう)(さん)(しゅ)()(しゃ)だった「(つみ)」を告白(こくはく)し、(べつ)(きょう)(さん)(しゅ)()(しゃ)()(とう)(きょく)()げることで(ゆる)される(ほとんど宗教(しゅうきょう)(てき)ですらある)が、それを(こば)めば()(かい)()(じょく)(ざい)()われ、地位(ちい)(うしな)ったり、()(さつ)する(もの)さえいたほどであった。

 4(しゅう)(かん)にも(およ)審問(しんもん)をノーマンは「(しん)()(てき)拷問(ごうもん)」と(かた)ったが、スパイの(しょう)()()つからなかった。そして1953(ねん)(かれ)はニュージーランド高等(こうとう)(べん)()(かん)任命(にんめい)される。()(じつ)(じょう)()(せん)だった。

 

 スパイ(よう)()のほとぼりがさめた1956(ねん)(かれ)(ちゅう)エジプト(たい)使()としてカイロに()(にん)する。エジプトはイスラエルと敵対(てきたい)していたため、(ひがし)(がわ)から武器(ぶき)(こう)(にゅう)すると、アメリカはアスワン・ダム建設(けんせつ)援助(えんじょ)撤回(てっかい)した。するとナセル(だい)(とう)(りょう)はスエズ(うん)()(こく)(ゆう)()宣言(せんげん)し、イギリスは経済(けいざい)制裁(せいさい)でこれに(こた)えるという、(とう)()(ちゅう)(とう)情勢は(いっ)(しょく)即発(そくはつ)(じょう)(たい)であり、友人(ゆうじん)でもあるレスター・ピアソン(がい)(しょう)(のち)(しゅ)(しょう))がノーマンの外交(がいこう)手腕(しゅわん)()(たい)()せたのである。

 レバノン(こう)使()(けん)()していたノーマンは、ベイルートを訪問(ほうもん)した(さい)、ベイルートのアメリカ(たい)使()(かん)(きん)()していたエマーソンと()っているが、ちょうどそのときイギリス・フランス・イスラエル連合(れんごう)(ぐん)がエジプトに(しん)(にゅう)し、(だい)二次(にじ)(ちゅう)(とう)(せん)(そう)(スエズ(せん)(そう))の(まく)()って()とされた。(きゅう)(きょ)(ひら)かれた国連(こくれん)(りん)()総会(そうかい)では、イギリスとフランスが徹底(てってい)(こう)(せん)(しゅ)(ちょう)したが、エジプトを()いつめれば(ひがし)(がわ)傾斜(けいしゃ)するだけだというノーマンの進言(しんげん)()け、ピアソンはカナダ(ぐん)国連(こくれん)(ぐん)として()(けん)することを(もう)()る。イギリス(れん)(ぽう)(ぞく)するカナダに()(しん)(かん)(いだ)くナセルを、ノーマンは(こん)()よく説得(せっとく)し、国連(こくれん)(ぐん)(どう)(にゅう)連合(れんごう)(ぐん)撤退(てったい)実現(じつげん)させた。国連(こくれん)(ぐん)(ふん)(そう)調(ちょう)(てい)という(あたら)しい役割(やくわり)()(いだ)したピアソンは、翌年(よくとし)ノーベル(へい)()(しょう)(じゅ)(しょう)する。

 だがそのころアメリカでは、エマーソンの喚問(かんもん)(おこな)われていた。そこでの(しょう)(てん)GHQ(にん)()(きょう)(さん)(とう)(かん)()(しゃく)(ほう)したことだったが、この(せき)(かれ)がノーマンと、スエズ(せん)(そう)開戦(かいせん)(ちょく)(ぜん)()っていた()(じつ)(あか)るみに()た。エジプトを西側(にしがわ)から()(はん)させる(ぼう)()だったのではないかという()(わく)()かび()がり、ノーマンの(さい)審問(しんもん)確実(かくじつ)となったのである。

 あの(あく)()のような日々(ひび)がまたやって()るのか・・・・・(ちょう)()(かん)審問(しんもん)()()き、友人(ゆうじん)()()げる誘惑(ゆうわく)()()()(しん)はもうなかった。(かれ)(きょう)(さん)(とう)(いん)だったという(しょう)()()つかっていないが、(きょう)(さん)(しゅ)()(てき)()(そう)()っていたことは()(じつ)なのである。そしてマッカーシストたちにとって問題(もんだい)本質(ほんしつ)は、スパイ(こう)()そのものではなく、コミュニストであったこと()(たい)(つみ)だということなのだ((えい)()では(きょう)(さん)(とう)(いん)(きょう)(さん)(しゅ)()(しゃ)もコミュニストである)。(かれ)らの(しん)目的(もくてき)は、ノーマンに(きょう)(さん)(しゅ)()(しゃ)であることを告白(こくはく)させ(がい)(こう)(かん)として(しっ)(きゃく)させるか、友人(ゆうじん)()()げさせて人間(にんげん)関係(かんけい)()(かい)し、(よう)(きょう)(しゅ)()(しゃ)()せしめにすることなのである。(がい)(こう)(かん)として()(のこ)るためには、友人(ゆうじん)()らなければならない。だが(せん)(きょう)()()としてキリスト(きょう)(きょう)(いく)()けてきた(かれ)にとって、それはユダに(ひと)しい(こう)()だった。そして(じょう)()のピアソンは、友人(ゆうじん)として一貫(いっかん)してノーマンをかばい(つづ)けた。しかしノーベル(しょう)(じゅ)(しょう)し、(しょう)(らい)(しゅ)(しょう)地位(ちい)(のぞ)まれているピアソンにとって、もはや()(ぶん)存在(そんざい)()(たん)でしかないように(おも)えた。つまり()(ぶん)友人(ゆうじん)のピアソンにかばわれながら、友人(ゆうじん)()らなければならないのだ。

 (えい)()(しゅ)(ぜん)()(もの)(がたり)」を()ながら、ノーマンは呆然(ぼうぜん)としていたという。(しょう)(ぐん)()()わりに()られた(むすめ)・・・(むすめ)(いのち)より()(ごと)(しゅう)(しん)した(ちち)・・・。()()わった(あと)(かれ)(つま)()った。

(わたし)(けい)()()けた。」

 翌朝(よくあさ)(かれ)はビルの(おく)(じょう)から()()げ、(みずか)らの(いのち)()った。

*    *    *    *    *    *    *

 (あか)()りのあまりの邪悪(じゃあく)さに、(こころ)ある人々(ひとびと)反感(はんかん)(いだ)いた。1960(ねん)サンフランシスコで、()(みん)()(かい)議事(ぎじ)(どう)(ほう)()して(ちょう)(もん)(かい)(かい)(さい)阻止(そし)し、(あか)()りは(まく)()じる。だがカナダではイギリス(れん)(ぽう)のスエズ(うん)()喪失(そうしつ)について、()(しゅ)(とう)がピアソンと()(ゆう)(とう)()(はん)し、政権(せいけん)奪回(だっかい)する。ノーマンの(はたら)きは政争(せいそう)()となり、(かれ)(ひょう)()もまた(わい)(きょく)されてしまったのである。(かれ)()(ほん)では(すぐ)れた()(ほん)()()としてよく()られているが、北米(ほくべい)では(もっぱ)(かれ)がスパイであったかどうかがこれまで問題(もんだい)にされてきたのだった。

 ノーマンが生前(せいぜん)()(けん)()した「(ぎゃく)コース」の(なか)で、()(ほん)未曾有(みぞう)経済(けいざい)(せい)(ちょう)()げる。そして(めい)()(せい)()近代(きんだい)()(ちゅう)(おう)(しゅう)(けん)()今日(こんにち)()(ほん)発展(はってん)()んだとする(かい)(しゃく)(ゆう)()となり、それに()(はん)(てき)なノーマンの(れき)()(かん)(とう)()されていった。

 だが1979(ねん)にハリファックスでノーマンに(かん)する学会(がっかい)が開催されるなど、近年(きんねん)ようやく(かれ)(はたら)きを()(なお)(うご)きが(あら)われている。()(ほん)経済(けいざい)政策(せいさく)()(なお)しや、国連(こくれん)(つう)じた国際(こくさい)貢献(こうけん)()(だい)にされる昨今(さっこん)(かれ)(ぎょう)(せき)再考(さいこう)()(たい)したい。

 

 

 

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