[4]「アンクル・トムの小屋」 のモデル
Josiah Henson(1789−1883)
ハリエット・エリザベス・ビーチャー・ストウ夫人がアメリカ南部の奴隷制度を告発した小説「アンクル・トムの小屋」には、黒人奴隷のトムが自分の小屋でキリスト教の集会を開いたり、主人レグリーに酷使されたり、ハリス一家が「地下鉄道(黒人奴隷を逃亡させる地下組織)」によってカナダへ逃亡する話などが描かれているが、この物語のモデルになった人物が、カナダにいた。
ジョサイア・ヘンソンはメリーランド州チャールズ郡のプランテーションに、6人兄弟の末っ子として生まれた。父親は奴隷だったが、妻に主人のフランシス・ニューマンが暴力をふるっているのを見て殴り返したため裁判にかけられ、証人も弁護人もないまま即座に有罪判決を下された。彼は耳をピンで釘付けにした状態で50回鞭で打たれたため、耳を失い、その後アラバマに売り飛ばされ消息不明となった。ヘンソンは兄たちと引き離され、母親とともにノース・ベセスダのアイザック・ライリーに買われる。
ヘンソンは物心ついたころから、ライリーのプランテーションで働いた。ライリーは冷酷な主人で、奴隷のヘンソンには将来何の希望もないように思えたが、近くでジョン・マッキンニー牧師がキリスト教の集会を開いており、その語る言葉が農場で働くヘンソンにも聞こえて来るのだった。奴隷の身では決してここから出ることも、教会に行くこともできない、しかし神は自分のような奴隷さえも愛し、心に覚えて下さるのだということを悟り、彼は信仰に目覚めていった。そして聖書を読みたい一心で、主人の目を盗んで月明かりの下で読み書きの本を読んでいたが、ライリーはそれを見つけると、無残にも本を取り上げてしまった。奴隷は汗水たらして働くことだけ考えていればいいというのである。
ところがライリーは、それまでのギャンブルのつけをためこんでしまい、支払い困難な状態に追い込まれ、投獄の危機にさらされる。孤立無援のライリーの支えになったのは、意外にも奴隷のヘンソンだった。彼は主人に忠実に仕えるクリスチャンとなっていたのである。ライリーはそれまでの冷酷な扱いを悔い、将来ヘンソンを自由の身にしてやると約束するのだった。
ライリーは1825年ついに、全財産と奴隷を抱えて、ケンタッキーで農場を営む弟エイモスのところに夜逃げする。ライリーは、心の友であるヘンソンと彼の妻子を鎖で繋がないでおいたが、ヘンソンたちは逃亡しなかった。
ケンタッキーにおいても、信仰に裏打ちされたヘンソンの人柄は尊敬の的となり、1828年にメソジスト教会牧師に任命される。彼は依然として読み書きは不自由だったが、耳で聞いた説教と聖書を記憶し、それを人々に語っていた。450ドルで自由の身になれるというライリーとの約束を楽しみに、日々懸命に働き、唯一の財産とも言える馬車を売って金を工面するが、ライリーは意を翻し、ヘンソンをアラバマに売り飛ばそうとする。深南部の労働は苛酷で、それは死の宣告に等しかった。自分が永久に自由の身になれないことを悟ったヘンソンは、1830年ついに「地下鉄道」によってオンタリオ州ドレスデンに逃亡した。カナダには奴隷制度はなく、また当時アメリカとの関係が緊張しており、領内のフランス系住民やインディアンに対する人種融和政策を打ち出していたからである。
ヘンソン牧師は新天地カナダにおいても指導者となり、1838年オンタリオ州ロンドンで黒人会議を招集し、黒人の地位向上のため英領アメリカ学院の創立を決定して、その理事長に就任する。クエーカー教徒や奴隷廃止主義者の援助を受けて、1841年オンタリオ州ドーンに200エーカーの土地を購入し、森を切り開いて集落を作り、学院では人々に読み書きを教え、男子には職業訓練、女子には家事を教えるものとした。学院の周辺には逃亡奴隷のための宿舎、教員住宅、教会ができ、豊富な森林資源に目をつけたヘンソンは後に製材所と製粉所も設立。ドーンには黒人たちが続々と集まり、村はしだいに発展していった。このころこの村を視察する者も多く、1851年に訪れたイギリスの記者ヘンリー・ビップは、
「ここに住む黒人たちは自立していて、知的水準が高い。彼らは向上心を持ち、その目的も見出している。ほとんどの家庭は新聞を購読し、土地を所有し、また自分で耕作して自給自足の生活をしている。彼らは奴隷解放の理想に目覚め、それを実現しつつあるのだ」。
と報じている。当時義務教育もなく、小作農が多かった時代に、これらは画期的な試みとして人々の注目を浴びた。無学、階級、貧富の差、ホームレスは奴隷への逆戻りだとして、これらの根絶を目指していたのである。またヘンソンはカナダ市民として、1837年のアッパーカナダの乱のときイギリス(カナダ)軍に志願し、フォートモルデンの守備についている。
ボストンで奴隷解放学院のビーチャー氏と知り合い、その縁で姉妹のストウ夫人と出会ったのは1849年のことである。ここで語った自らの体験が、3年後に「アンクル・トムの小屋」として実を結んだのだった。
学院のスポンサーを探すため、ヘンソンは理事長職を辞して1851年にイギリスを訪れたとき、カンタベリー大司教のランベス宮殿に招待された。このとき大司教に、
「ヘンソン牧師はどこの大学で学ばれましたか」。
と尋ねられ、
“University
of Adversity.(逆境という名の大学)”
と答えると、
「その大学はどこにあるのですか」。
ときかれ、メリーランドのプランテーションにいたとき、月明かりの下で秘かに本を読んだこと、主人に見つかって本を没収されたこと、バターの包装紙を見て文字を覚えたことなどを語ると、大司教は人目もはばからず泣いたという。また彼は1877年にはビクトリア女王にウインザー城へ招かれ、肖像画と金時計に金のロケットを贈られている。
学院の理事長にはジョン・スコーブルが就任していたが、彼には私服を肥やしているという黒い噂が絶えなかった。ヘンソンがスコーブルを糾弾すると組織は内部分裂し、1868年ついに英領アメリカ学院は解散する。新組織ウィルバーフォース学院がオンタリオ州チャタムに創立されることになったが、ヘンソンに敵意を抱く新理事会はドーンの校舎、製材所、土地を売り飛ばし、彼が長年情熱を注いで築き上げてきたものを消し去った。
彼の元には何もなくなっていた。それまでの人生で、本当にいろいろなことがあった。彼が過去を振り返るかのように「アンクル・トムの生涯」や自伝などの執筆活動に勤しんだのはこのころである。そして彼は88歳にして、生涯の軌跡を辿る旅に出た。
メリーランドのプランテーションにライリーの姿はもちろんなく、彼の妹が召使いもなく、傾きかかったかつての豪邸にたった一人で暮らしていた。タバコを栽培していた農場も荒れ果て、住む者のない奴隷小屋は崩れていた。奴隷はすでに解放されていたのである。
ヘンソンはその足でドーンに向かった。原生林は切り開かれて昔日の面影はなく、木造建築の家々が建ち並び、雨が降るとぬかるんだかつての泥道は舗装され、校舎も消え失せていた。人のわざは消え去り、ただ神のみこころだけが成る─彼は時の流れを感じるとともに、神が与えて下さった思い出に感謝した。
93歳にして現役の牧師を務めていた彼は、礼拝中に声が出なくなり、病の床に倒れそのまま天に召されていった。追悼礼拝では、同じプランテーションで働いていたホーキンズ長老が、林の中で主人に隠れて主の愛についてヘンソンと語り合った夜のことを証しした。
今日ドレスデンの家は「アンクル・トムの家」として一般公開され、付近には逃亡奴隷の家「ハリスの家」や「パイオニア教会」、製材所などが復元されている。ドーンの学院跡には記念碑が残るのみである。